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英雄クラウス物語
ブレノリア大陸北方。
かつてエルネスト帝国と呼ばれた大国が、まだ小国だった頃の話。
エスペラントの名所である紅い湖、ラーカスト湖。その湖畔にある小さな村エンゴーサに、クラウスは生まれた。
寡黙だが優しい父と、物静かで聡明な母。
賑やかでも裕福でもなかったが、それでもクラウスにとって、そこは温かな故郷だった。
父は無口ではあったが、冬の夜には黙って薪をくべ、幼いクラウスが眠りに落ちるまで、その小さな背を大きな手で撫でてくれた。
幼いクラウスは両親の愛情を一身に受け、幸せな時間の中で暮らしていた。
八歳の冬が訪れるまでは。
その年、公国の北境で戦が起こった。
国境を隔てた小国との、領土を巡る争いだった。
村へ騎兵が現れたのは、雪の降り始めた早朝である。
公国の紋章が入った羊皮紙を掲げた兵士は、広場に村の男たちを集め、その名を淡々と読み上げた。
父の名も、その中にあった。
数日後、母は何も言わず、父の外套の留め具を何度も確かめていた。
クラウスは父の腰にしがみついた。
父は困ったように笑い、節くれ立った手でクラウスの頭を撫でた。
「すぐに戻る」
それだけを言って微笑み、出立した。
父の背が雪煙の向こうに消えた後も、クラウスは春になれば帰ってくるのだと信じていた。
ひと月ほどして、同じ村から徴兵された男が戻ってきた。
片脚を引きずり、右腕を布で吊り、頬には深い裂傷が残っていた。
彼は集まった村人たちに、村の男たちは前線で活躍していると伝えた。
クラウスの父についても、前線で勇敢に戦っていると語った。
何人もの兵を救い、敵の突破を幾度も押し返したのだという。
その夜、母は久しぶりに笑った。
「お父さんは、強い人だもの」
そう言って、クラウスの髪を撫でた。
だが、春が過ぎても父は戻らなかった。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、再び雪が村を覆っても、その姿はなかった。
負傷兵が帰還するたび、母は家を飛び出した。
血に汚れた外套の列を一人ずつ確かめ、担架の上の男たちを覗き込み、最後まで夫の姿を探した。
そんな日々が、二年続いた。
見つからないたびに安堵し、同時に絶望した。
死体として戻らぬことを喜びながら、生きて帰らぬことに怯える。
クラウスが十歳になった春、一通の手紙が届いた。
薄い羊皮紙に記されていたのは、父が戦死したという、わずか数行の報告だった。
どこで死んだのか。
どのように死んだのか。
亡骸はどこにあるのか。
何ひとつ書かれてはいなかった。
ただ、祖国への忠誠を称える定型文と、公国の印章だけが押されていた。
母は取り乱さなかった。
使者に礼を述べ、深く頭を下げ、扉を閉じた。
そしてクラウスを抱きしめた。
「大丈夫よ」
その声は優しく、クラウスを励ましているようだった。
母は人前では笑い続けた。
畑に出て、糸を紡ぎ、クラウスの食事を作った。
だが夜になると、閉ざされた寝室の向こうから、息を殺した嗚咽が聞こえた。
クラウスは布団の中で目を開き、暗い天井を見つめていた。
声を掛けることはできなかった。
扉を開けば、母が必死に守っている何かまで壊れてしまうような気がした。
母は次第に痩せていった。
頬は窪み、指は細くなり、自分の分の食事をクラウスの皿へ移すことが増えた。
「お腹は空いていないの」
そう言って笑った。
やがて母は、春の訪れを待たずに床から起き上がれなくなった。
雪の降る夜だった。
炉の火はすでに弱く、窓の隙間から入る風が、蝋燭の炎を細く揺らしていた。
クラウスは母の冷たい手を、両手で包んでいた。
母は薄く目を開き、息子の顔を見つめた。
「クラウス」
風の音よりも弱く細い声でクラウスの名を口にし、彼の頬に触れた。
彼の名を最後に、母の手は動かなくなった。
クラウスは何度も呼びかけた。
肩を揺すり、手を握り、冷えていく頬へ額を押し当てた。
だが、返事はなかった。
外では雪が降り続いていた。
村も、森も、父の眠る遠い戦場も、何もかもを覆い隠すように。
その夜、十歳のクラウスは世界を憎んだ。
その感情は冷たい鉄となり、二度と折れぬ一振りの刃となった。
母を埋葬した翌日から、クラウスは鍛錬を始めた。
父が遺した剣を振った。
柄は幼い手には太く、刃は重すぎた。
一度振るうだけで腕が痺れた。それでも日が暮れるまで振り続けた。
夜は村に残された古い兵法書を読み、旅の魔術師が滞在すれば、食事と寝床を提供する代わりに魔法を教えてほしいと頼み込んだ。
冬の凍土を走り、夏の泥濘を歩き、指の皮が裂けても剣を握った。
倒れても立ち上がった。
立ち上がれなくなれば、地を這った。
彼を突き動かしていたのは、名誉でも出世でもなかった。
戦を終わらせるには、戦を始める者よりも強くならねばならない。
誰かを守るには、奪おうとする者を退ける力が要る。
幼い彼が見いだした答えは、あまりに単純で、あまりに苛烈だった。
そして十五歳を過ぎた年、クラウスはエルネスト公国軍へ志願した。
徴募官は、痩せた少年を見て鼻で笑った。
だが、試験が始まると、その笑いは消えた。
クラウスは大人の兵を剣で圧倒し、盤上に並べられた兵駒を用いた戦術試験では、歴戦の士官さえ想定しなかった突破経路を示した。
彼の才は、疑う余地がないほど明白だった。
そして、その才能は彼に安息を与えなかった。
入隊から一年。
十六歳にして、クラウスは部隊長に任命された。
前例のない昇進だった。
年長の騎士たちは彼を成り上がりと蔑み、貴族出身の将校たちは平民の少年に従うことを恥じた。
兵たちも当初は、若すぎる指揮官を信用しなかった。
初陣の日、クラウスの命令に従わず、独断で前進した部隊さえあった。
敵の伏兵に囲まれた彼らを救うため、クラウスは単独で敵陣へ突入し、退却の隙を作った。
矢が外套を裂き、槍が脇腹を掠めた。
それでも彼は退かなかった。
敵の指揮官を斬り、包囲の一角を崩し、負傷兵を自らの馬へ乗せて帰還した。
退却戦では常に殿を務め、戦いが始まれば常に先陣を切った。
戦場で彼が命じたのは、「進め」ではなかった。
「俺に続け」
いつも、それだけだった。
兵たちはやがて、若き部隊長の背を追うようになった。
彼が立つ限り、陣は崩れない。
彼が剣を掲げる限り、生きて帰れる。
その信頼は、幾度もの血と死によって築かれたものだった。
その後も戦功を重ね、クラウスはやがて軍団長へと昇進した。
十数年に及ぶ戦乱の果てに、エルネスト公国は周辺諸国を次々と併合した。
砦は落ち、国境線は北へ南へと広がり、かつて小国だったエルネストは、大陸北方一帯を支配する帝国となった。
その歴史の中心には、常にクラウスがいた。
敵の大軍を渓谷へ誘い込み、数百の兵で数千を退けた戦い。
飢餓に苦しむ敵国の民へ軍糧を分け与え、都市を無血開城させた戦い。
孤立した部隊を救うため、吹雪の山脈を三日三晩で越えた戦い。
彼の武勲は、吟遊詩人によって歌となり、街道を越え、国境を越えた。
子供たちは木の枝を剣に見立て、彼の名を叫んだ。
若者たちは彼の軍へ志願し、老兵たちは酒場で彼の戦いを語った。
いつしか人々は彼を、英雄クラウスと呼ぶようになった。