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英雄クラウスの名が、帝国の隅々にまで知れ渡るようになった頃。
その武勲は、ついに皇帝の耳にも届いた。
数え切れぬ戦場で勝利を収め、敵国の民さえ救った英雄を一目見ようと、皇帝はクラウスを帝都へ召し出した。
血と泥にまみれた戦場しか知らなかったクラウスは、その日初めて、宮殿へ足を踏み入れた。
磨き抜かれた大理石の床。
金糸の刺繍が施された旗。
幾人もの貴族や将官が見守る中、クラウスは玉座の前へ進み、片膝をついた。
皇帝は彼の功績を称え、帝国最高の栄誉を授けた。
だが、この日クラウスの運命を変えたのは、勲章でも皇帝からの言葉でもなかった。
その夜に催された戦勝祝賀の席で、彼は一人の女性と出会うことになる。
皇帝の一人娘で、幼くして母である皇妃を失い、広大な宮殿の中で育った姫君である。
美しい娘だった。
だが、彼女の美しさを褒める者は多くとも、その孤独を知る者はいなかった。
貴族たちは皇女という地位を見て跪き、侍女たちは命令を待ち、求婚者たちは帝位へ至る道として彼女を見た。
ただ一人、クラウスだけが違った。
二人が初めて言葉を交わしたのは、戦勝祝賀の夜だった。
華やかな大広間を抜け出し、姫は人気のない回廊で夜空を見上げていた。
クラウスは彼女が皇女だと知りながら、跪かなかった。
ただ、自分の外套を彼女の肩へ掛けた。
「冷えます」
姫は驚いたように彼を見た。
それが、始まりだった。
クラウスは戦場の話を美しく飾らなかった。
姫も宮廷の煌びやかさを幸福だとは偽らなかった。
二人は互いの傷に触れず、けれど、その存在を見ないふりもしなかった。
やがて姫は、英雄ではないクラウスを愛した。
クラウスもまた、皇女ではない彼女を愛した。
彼女はクラウスに夢を語った。
「いつか二人で、あなたの育った場所に行きたい」
男子のいなかった皇帝は二人の婚姻を認め、いずれクラウスへ帝位を継がせる意向を示した。
クラウスの人生は、順風満帆に見えた。
英雄が皇帝となれば、戦のない時代が訪れる。
そう信じ、国中は歓喜に包まれた。
だが、その未来を恐れる者たちがいた。
長きにわたり宮廷の権力を握ってきた、宰相と大臣たちである。
平民出身のクラウスが帝位に就けば、旧来の特権は失われる。
軍の不正も、税の横流しも、賄賂によって築いた地位も、すべて暴かれる。
彼らは表向きには婚姻を祝福しながら、裏ではクラウスを陥れる策を巡らせた。
街の娼館から、身重の女が連れ出された。
多額の金と家族の安全を約束され、彼女は皇帝の前で涙を流した。
「この子の父親は、クラウス様です」
偽造された手紙。
買収された証人。
巧妙に揃えられた日付。
怒りと悲嘆に呑まれた皇帝は、真実を確かめようとはしなかった。
最愛の娘を弄んだ男として、クラウスからすべてを奪った。
軍団長の地位。
英雄の称号。
領地と財産。
そして、愛する姫との未来。
クラウスは弁明した。
証人との対面を求め、調査を願い出た。
しかし、彼の言葉は玉座まで届かなかった。
城門は閉ざされ、兵たちはかつての指揮官へ槍を向けた。
姫もまた、塔の一室へ幽閉された。
彼女は何度も父へ訴えた。
あの人は、そのようなことをしない。
「私は彼を信じています! どうか一度だけ、会わせてください!」
だが、その願いは届かなかった。
窓の外で季節が変わり、クラウスの消息を知らされぬまま、姫は食事を取らなくなった。
侍女が差し出す水にも口をつけず、ただ彼から贈られた古い外套を抱きしめていた。
それは初めて二人が出会った夜、彼が彼女の肩へ掛けたものだった。
ある朝、侍女が部屋を訪れると、姫は寝台の上で静かに息を引き取っていた。
その胸には、クラウスの古い外套が抱かれていた。
姫の死を知った夜、クラウスは叫びもせず、ただ長い間、椅子に腰掛けたまま動かなかった。
再び愛する者を奪われたクラウスは立ち上がり、かつて滅びた古代文明の遺跡から発見した、封印された書を開いた。
そこに記されていたのは、あまりの危険性ゆえに、歴史と魔導書からその名さえ抹消された魔法。
――禁呪。
彼は長い戦いの中で、その存在を知っていた。
だが、一度として使おうとはしなかった。
その力が、人を守るためのものではないと理解していたからである。
数日後の夜、帝都の空から星が消えた。
雲ひとつないはずの空が黒く沈み、城壁の魔導灯が一斉に消えた。
大地の底から、獣の咆哮にも似た震動が響いた。
騎士団は城門を閉ざし、帝国軍は武器を取った。
民衆は恐れおののき、家の中に閉じこもった。
空間そのものが軋み、宮殿を囲む大気が硝子のようにひび割れた。
宰相が悲鳴を上げた。
大臣たちは許しを乞うた。
皇帝は玉座から立ち上がり、ようやく自らの過ちに気づいた。
だが、すべてが遅かった。
白い閃光が帝都を呑み込んだ。
石造りの城壁が砂となり、鋼鉄の鎧が赤熱し、宮殿も、軍旗も、玉座も、夜の中へ溶けていった。
一夜にして、エルネスト帝国は滅びた。
翌朝。
かつて帝都があった場所には、黒く焼けた大地だけが広がっていた。
その中心に立つ者の姿はなかった。
帝国の外にいた人々は、消えた英雄について噂した。
絶望のあまり、自ら命を絶ったのだと。
だが、クラウスは生きていた。
しかし、禁呪は彼の身体にも深い爪痕を残していた。鮮やかだった黒髪は一夜にして白く変わり、顔からは血の気が失せ、死人のような蒼白さを帯びていた。
かつて人々が英雄と称えた男の面影は、もはやほとんど残されていなかった。
クラウスは名を捨て、かつての仲間たちの前から姿を消した。
そして、生まれ故郷エンゴーサのある、ラーカスト湖の畔へと向かった。
――終